雑記

2015年1月 1日 (木)

あけましておめでとうございます。

たいして読んでいる人もいないブログですが、
本年もよろしくお願いします。

あいかわらず、講義期間は更新が遅くなる一方、休みの間は一挙に記事があがったりで、不定期なブログになるかと思います。

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今年はおせちも作りませんでした。来年はいい加減作りたい。
(画像は実家の母作)

2014年7月20日 (日)

食べる、ということ

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しばらくブログを放置していました。

実家でいろいろありまして、日常とは隔たった2週間を過ごしており、もう最後の方は限界・・・という感じだったのですが、なんとか無事に福岡に戻り、いつもの生活へ。

非日常な時間で、慌ただしい時間をすごすなかで、一番強く思っていたのが、「ちゃんとご飯食べたい・・・」でした。なんて、欲深いんだ、わたし。

でも。
やっぱり、食べることは生きることに直結しているし、
その食べたものが、直接的な意味で、「この私」を作っているわけで、
だからこそ、私はちゃんと食べたい。
どんなものを食べ、どんなふうに食べているかは、その人を表すなぁと思ったりします。

ということで、画像がたまっているので、どしどしアップしていきますね!

2013年4月 1日 (月)

新年度あけましておめでとうございます。

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新しい年度が参りました。私は福岡4年目。そして、同居人くんは初めての三重暮らし。

三重へ移った彼の話を聞きながら、自分の来し方をぼんやり考えていました。ともかく福岡に来た当初は、馴染めなくて、二言目には「京都に帰りたい」で、寂しくて、必死で、不安で、手探りでした。そもそも、研究者というのは、個人事業主みたいなものなので、大学という組織のなかにいても、あまり「同僚」という感覚がないし、そもそも、普通の会社なら「同期」とか、年の近い人がいるはずなんだけど、そういう存在もいないわけです。

もちろん、仕事のあるところならどこでも行くから、友達なんかもいないし。

そして、なによりも、「大学」という奇妙な場所。時間が止まっていて、止まったものが沈殿して、肥大化して、所によっては歪んでいたりする場合もあって、ともかく今まで自分が生きていた世界とのギャップに驚くことばかりで、そして、同僚や友達がいないので、そのギャップを共有するこもとできなくて、余計にストレスがたまるという。

ともかく1年間は慣れるために大変だろうなぁと、遠く福岡から三重の空を眺めるだけですが。

一方、丸3年を福岡で過ごした私は、というと、楽しくやっています。まぁ、たしかに「友達」はいないけれど、研究の仲間は少しずつ増え、ネットワークも出来つつあって、とりあえず困ったときに飲みに行く店もあって、散歩のコースも決まって。3年かけて、ようやく地に足がついた、という感じです。

だから、今年は一歩前へ踏み出して、新しいことをはじめなきゃ。

2013年3月28日 (木)

福岡で桜散歩

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昨日の夕方、京都から福岡に戻ってきました。こちらはすでに桜が満開から散り初めという感じで、今朝は同居人くんの引っ越しの荷物を出してから、少し春を味わおうと思い、カメラ片手に散歩をしてきました。

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福岡で桜を見るときは、もっぱら舞鶴公園です。思い返せば、4年前にこの街に来たときには、桜を見る場所がわからなくて、それだけで寂しい気持ちになったなぁ。友達もおらず、初めての土地で緊張と不安にさいなまれていたときから、4度目の春。桜見散歩のコースも固定されてきました。

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菜の花も咲いていました。ピンクとイエローって、萌え出る春!という感じですよね。

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近所の公園でのワンショット。子供達がのんびり遊んでいて、春休みだなぁという感じ。さぁ、新しい年度がもうそこまで来ています。

2012年10月29日 (月)

わたしのしごと

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ある先生からお手紙を頂いた。

先日の某シンポジウム(とその前日の飲み会)で、一番私に議論をふっかけてきた方だ。有名な先生で、正直それまで私は彼のことを少し苦手に思っていた(いわゆる「全共闘あがり」のめんどくさい人、というカテゴリーに入っていたので)。けれど、その飲み会の席での会話で、彼がなぜ、ひとの「死」ということに過剰と思えるほどに反応するのかが少し垣間見え、だからこそ、真摯に悩み、自分(そして他者)の傲慢に厳しくなる、その態度に、なんて真面目な方なのだろうと考えを改めた。

その先生からの手紙を読みながら、私は彼ほど真面目じゃないし繊細でもないなと軽くため息をつきたくなった。そして、ずいぶん昔、若い頃にある人から言われた言葉を思い出した。その人は、私に悲しい目を向けてこう言った。

「君にとって、すべてのことは、自分がモノを書くためのネタにすぎないんじゃないか」

あぁ、そうだ。と心の中でつぶやいたことをはっきりと覚えている。そして、それは文章を書くことが明確に仕事になった今でも変わっていないと思う。

私の仕事は、形のない概念を扱う。しかし、その概念は、それぞれの人生に直結したものだ。「生」とか「死」とか、「善」とか「悪」とか。「偶然」とか「災厄」とか、「他者」とか「愛」とか。私たちが生きている毎日のなかにあって、知っているようで知らないものを、問い直し、形にして、整えるのが仕事なんだと思う。本来は形にできないもの、あるいは、それぞれに違うはずのものを、整えるから、そこに必ず取りこぼしは出てくる。手紙をくださった先生は、そのことに苦しんでいる。個別と向き合えないこと。だから、シンポジウムで「震災をネタにするような言説」と批判したのだろう。

手紙には、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」と言ったアドルノの言葉が引用されていた。

それはよくわかる。けれど、では、もはや私たちは言葉を持たないのか。言葉なしにやっていくのか。傲慢でも、言葉以外に頼るものがないのではないのか。その意味で、私の仕事は傲慢で野蛮なんだろう。その苦しみを飲み込んで、可能な言葉を探っていくしかない。なんて業の深い仕事をしているんだろうと思う昼下がり。しかし、同時に、私はそれ以外のやり方を知らないのだった。

2012年7月 6日 (金)

日々の想い

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以下、普段とは全く関係のない日々のつれづれ(やや学問)ですので、見なかったことにする方向で。

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昨年末の病気は、ある意味で、自分が今まで研究してきたテーマにとって、大きな転換点だった。というか、それまで自分の考えてきたことがいかに薄っぺらかったかということを痛感させられた。「災厄」とか「偶然」とか「出来事」とか、口にすることはたやすい。でも、私は、それをいつも自分の側からしか見てこなかった。つまり、自分が何事かに巻き込まれるということは考えても、他人を巻き込むということを想像していなかったのだ。だから、自分の病気がわかったとき、共に生きていく人に影響を及ぼしてしまうこと、つまり、迷惑をかけてしまうことを極度に恐れたし、半ばパニック状態に陥った。人はそれぞれに自らの人生を充実させるべきで、そして、それを他人は邪魔すべきではないという、それまでの私のモットーを、あらんことか、自分自身の存在が崩していくのだから。

他者と共にいる、ということの意味を改めて考えた闘病期間だったなぁと今にして思う。

そして、私はいま、ようやく一つの答えを手にできた気がしている。それはたとえば、「愛」と呼ばれるものが一体何なのか、おぼろげに見えてきたということ。

愛・・・口にするとちょっと照れる。でも、かつて、もう10年ほど前になるだろうか、私の研究を見守ってくれている先生が、「あなたがこの先に進むためには、愛について考えないといけませんよ」と言ってくれたことの意味を、今頃になって私はようやくわかった。当時の私は、「偶然」や「災厄」を「愛」に繋げるその発想に、どこかしら「おめでたいなぁ」とか、「この先生はええ人やなぁ」と思っていたところがあったんだけど、別に、それはおめでたいわけでもなんでもなくて、ある種の覚悟の問題なのだ、と気付いた。覚悟をきめることのできない人間には、ただ、それが甘やかに見えるだけで。

では、それはいったい何の覚悟なのだろう。単純にいえば、巻き込まれることの肯定であり、つまり、他者とともに偶然に身を委ねていくことの覚悟なのだろう。偶然にふりまわされるとわかっていながら、それでも引き受けることは一種の賭けだ。賭けることができるとは、それすなわち愛なのではないのか。

えらそうに愛について語っているけれど、私は自分でそこに到達したわけでもなければ、自分がそういう愛あふれる人間だとはこれっぽっちも思っていない。というか、私はそれを与えられ、教えられた側だ。そういう人が一緒にいてくれるということは、なんという僥倖だろう。

「愛とは真に、偶然に対して寄せられた信頼なのです。愛はわれわれを、差異とは何かということの根本的経験の領域に、そして結局、ひとは差異の観点から世界を探求できるのだという考えへと向かわせるのです」

このアラン・バディウの言葉に、いまなら素直に頷くことができる。

2012年5月13日 (日)

いってきます

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大阪なう、です。今日は学会で大阪。明日の夜遅くに東京へ移動します。そんなわけで、ブログ復帰はおそらく次の週末かなー。

2012年5月 3日 (木)

ことしの春は…

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行く春を惜しみつつ、花の写真など。平尾山荘の雪柳。

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4月はじめ、舞鶴公園の桜。

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ソメイヨシノの次は八重桜が咲いて。福岡に住み始めて3年目にしてようやく舞鶴公園が花の公園だということに気づく私。

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桜のあとは、躑躅など。

2012年3月 5日 (月)

東京出張と思うこと。

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今年の秋、ひとつ大きな仕事を抱えています。某学会のメインシンポに登壇するのですが、一緒にお話させていただくのが知る人ぞ知る阪大の前学長。彼は私がこの学問を選んだころ、学問の新しい形を見せてくれた人であり、それからずっと第一線で言葉を紡ぎ続けてきた先生です。直接的ではないけれど、彼の学問への取り組み方に影響を受けてきたと私自身感じていて、まさかそんな人と一緒にシンポを組めるなんて、嬉しさ半分驚き半分。

新しいジャンルに飛び込んで、だから新しいことを立ち上げたいともがきながら、それまでの伝統に囚われて身動きがとれなくなったとき、彼の書いた著作の軽やかさに憧れたものです。伝統と距離をとりながら、学問の本質に立ち返ろうとすること、それによって新しい何かを作ること。けれど私は、出てゆくこと、破壊すること、でも、そうじゃないやり方もあるんじゃないかとずっと京都で悩んでいたように思います。それから東京での仕事が増え、福岡に移り、気がついたら、いつのまにか今の状況。この前、唯一の女友達と電話で話していて、このシンポのことを伝えたら、それはそれは喜んでくれたのですが、そのとき言われたのが「ホントに、やりたいことを持って、必死でがんばるって大事なんだね。そうすれば道は開けるんだね」ということでした。

今回の東京出張は、そのシンポジウムの打ち合わせを兼ねた研究会だったのですが、しみじみとその友達の言葉を思い出していました。
しかし、「哲学は過剰な営みである」と報告を始めるW先生は相変わらずで、あこがれの先生としてはいいんだけど、一緒に仕事するとなると大変だなーと痛感した一日になりましたw

土日、忙しく過ごしたので、昨日はゆっくり岩田屋なんぞ行ったのですが、そこでたまたま良さげな箸置きを見つけまして、お持ち帰りしました。ここのところ、箸置きをずーっと探していたので。福岡の嘉麻市に窯をかまえる鶴岡誠さんのものです。

2012年1月29日 (日)

バレンタイン

まきの病気も回復したので、イギリスに戻るのです。そんなわけでバレンタインデーは日本にはいないのです。
去年や一昨年は、日本からプレゼントを送ってもらっていたのですが、到着時期が読めないために、タイムラグが生じていました。
だったらということで、日本にいる間にプレゼントをもらえました。その話。

岩田屋に買い物に行ったときのことです。上記の理由からバレンタインのプレゼントをいま買ってあげるといわれて、地下2階に連れて行かれました。「なるほどチョコレートなのか」と思ったら、裏をかかれて、コンランショップのほうでした。してやったりの顔でした。

岩田屋から送られてくる冊子に、僕が好きであろうものが載っていたそうなのです。僕の食事の好みを僕以上に知っているひとですから、間違いないだろうとは思っていたのですが、想像以上でした。これなのです。

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Globe-trotterの書類ケースです。

とはいえ僕は基本的に書類を持ち歩きません。用途はむしろこうです。


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MBAを入れておくのです。実は前に無印良品でフェルト封筒を買ったのですが、耐久性に不安があったため、あきらめていたのです。でもやっぱりMBAは封筒から取り出したい。かっこいいし。

そんな感じで悩んでいたところを、まきがしっかりチェックしていてくれたのです。
で、この書類ケースなら大丈夫じゃないかと思って、プレゼントにしようと考えてくれていたのです。
こういうところに気づいてもらえるのは、一緒に暮らしているからです。うれしいことです。

お返しのハードルがあがった気もしますが。
終わり。