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2012年10月29日 (月)

わたしのしごと

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ある先生からお手紙を頂いた。

先日の某シンポジウム(とその前日の飲み会)で、一番私に議論をふっかけてきた方だ。有名な先生で、正直それまで私は彼のことを少し苦手に思っていた(いわゆる「全共闘あがり」のめんどくさい人、というカテゴリーに入っていたので)。けれど、その飲み会の席での会話で、彼がなぜ、ひとの「死」ということに過剰と思えるほどに反応するのかが少し垣間見え、だからこそ、真摯に悩み、自分(そして他者)の傲慢に厳しくなる、その態度に、なんて真面目な方なのだろうと考えを改めた。

その先生からの手紙を読みながら、私は彼ほど真面目じゃないし繊細でもないなと軽くため息をつきたくなった。そして、ずいぶん昔、若い頃にある人から言われた言葉を思い出した。その人は、私に悲しい目を向けてこう言った。

「君にとって、すべてのことは、自分がモノを書くためのネタにすぎないんじゃないか」

あぁ、そうだ。と心の中でつぶやいたことをはっきりと覚えている。そして、それは文章を書くことが明確に仕事になった今でも変わっていないと思う。

私の仕事は、形のない概念を扱う。しかし、その概念は、それぞれの人生に直結したものだ。「生」とか「死」とか、「善」とか「悪」とか。「偶然」とか「災厄」とか、「他者」とか「愛」とか。私たちが生きている毎日のなかにあって、知っているようで知らないものを、問い直し、形にして、整えるのが仕事なんだと思う。本来は形にできないもの、あるいは、それぞれに違うはずのものを、整えるから、そこに必ず取りこぼしは出てくる。手紙をくださった先生は、そのことに苦しんでいる。個別と向き合えないこと。だから、シンポジウムで「震災をネタにするような言説」と批判したのだろう。

手紙には、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」と言ったアドルノの言葉が引用されていた。

それはよくわかる。けれど、では、もはや私たちは言葉を持たないのか。言葉なしにやっていくのか。傲慢でも、言葉以外に頼るものがないのではないのか。その意味で、私の仕事は傲慢で野蛮なんだろう。その苦しみを飲み込んで、可能な言葉を探っていくしかない。なんて業の深い仕事をしているんだろうと思う昼下がり。しかし、同時に、私はそれ以外のやり方を知らないのだった。

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