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2012年7月 6日 (金)

日々の想い

259

以下、普段とは全く関係のない日々のつれづれ(やや学問)ですので、見なかったことにする方向で。

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昨年末の病気は、ある意味で、自分が今まで研究してきたテーマにとって、大きな転換点だった。というか、それまで自分の考えてきたことがいかに薄っぺらかったかということを痛感させられた。「災厄」とか「偶然」とか「出来事」とか、口にすることはたやすい。でも、私は、それをいつも自分の側からしか見てこなかった。つまり、自分が何事かに巻き込まれるということは考えても、他人を巻き込むということを想像していなかったのだ。だから、自分の病気がわかったとき、共に生きていく人に影響を及ぼしてしまうこと、つまり、迷惑をかけてしまうことを極度に恐れたし、半ばパニック状態に陥った。人はそれぞれに自らの人生を充実させるべきで、そして、それを他人は邪魔すべきではないという、それまでの私のモットーを、あらんことか、自分自身の存在が崩していくのだから。

他者と共にいる、ということの意味を改めて考えた闘病期間だったなぁと今にして思う。

そして、私はいま、ようやく一つの答えを手にできた気がしている。それはたとえば、「愛」と呼ばれるものが一体何なのか、おぼろげに見えてきたということ。

愛・・・口にするとちょっと照れる。でも、かつて、もう10年ほど前になるだろうか、私の研究を見守ってくれている先生が、「あなたがこの先に進むためには、愛について考えないといけませんよ」と言ってくれたことの意味を、今頃になって私はようやくわかった。当時の私は、「偶然」や「災厄」を「愛」に繋げるその発想に、どこかしら「おめでたいなぁ」とか、「この先生はええ人やなぁ」と思っていたところがあったんだけど、別に、それはおめでたいわけでもなんでもなくて、ある種の覚悟の問題なのだ、と気付いた。覚悟をきめることのできない人間には、ただ、それが甘やかに見えるだけで。

では、それはいったい何の覚悟なのだろう。単純にいえば、巻き込まれることの肯定であり、つまり、他者とともに偶然に身を委ねていくことの覚悟なのだろう。偶然にふりまわされるとわかっていながら、それでも引き受けることは一種の賭けだ。賭けることができるとは、それすなわち愛なのではないのか。

えらそうに愛について語っているけれど、私は自分でそこに到達したわけでもなければ、自分がそういう愛あふれる人間だとはこれっぽっちも思っていない。というか、私はそれを与えられ、教えられた側だ。そういう人が一緒にいてくれるということは、なんという僥倖だろう。

「愛とは真に、偶然に対して寄せられた信頼なのです。愛はわれわれを、差異とは何かということの根本的経験の領域に、そして結局、ひとは差異の観点から世界を探求できるのだという考えへと向かわせるのです」

このアラン・バディウの言葉に、いまなら素直に頷くことができる。

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