ふと、あの京都での日々を残しておかなければと思う。
あの頃、私は身分を持たない、いわば一介のプー太郎だった。
(大学院はでたけれど、という・・・)
けれど、京都はプーに優しい。(ただしよく知っているプーにだけ)
研究がしたい、けれど認められない、悶々と悩むアラサ―のアホ。
でも、誰もそんなことに興味はない。
酒が飲めるか、強いか、そんなふうにして勢いづけて、私は20代を過ごした。
そうじゃないと生きていけなかった。
彼らは優しかった。
グデングデンに酔っぱらう私を見て、
「アホやなぁ」とか「無理してんなぁ」とか言いつつ、
けれど、いつも応援してくれていた。
仲の良かったバーテンダーは、
本当に私が疲れているときに、
「よし、ハグしたろ!」と言って、
「お前はホンマ頑張ってるって!」
と言って励ましてくれた。
そんなふうにして、私は街の中にいる人たちに支えられていた。
けど、それでも、しんどかった。
未来は見えない、愚痴る相手はいない。しかも、お金もない(笑)
しかも、私の専門は新ジャンルで、自分で道を切り開くしかない。
いい加減疲れていた。
そんな頃、引っ越して暮らすようになったのが西陣だった(それまでは東山住まい)。
・・・・びっくりするほど、自由人の集まりだった。
いや、正確に確かめたことはないのでわからないんだけど、
日がな一日ぶらぶらしている若い人の多いこと。
「焦る必要はない。自分のしたいことだけやろうや」
そんな聞こえない声を聴いた気がする。
とはいえ、あっちでけなされ、こっちでバカにされ、という日々もあったのですが。
肝だけは座った(笑)
ここまで来たんだから、前を向いていこうと。
そんな折、
私は同居人くんと一緒に暮らすようになり、
私たちは西陣のアパートから、西陣の町屋に引っ越した。
(その距離、徒歩圏内。)
町屋の暮らしは、面倒だった(笑)
だって、回覧板のある暮らしだもの。
お向かいのおばあちゃん、組長をしている隣の隣のおばあちゃんに、
なぞの着付け教室。
ともかく人と関わることが多かった。
でも、引っ越してきたときに、おばあちゃんたちが、
「こんなところに、若い人が来てくれてうれしい」と笑ってくださったことは忘れられない。
そのあとも、回覧板を頂くたびに、
「こんなんはなー、お金出さんでもよろしおす」
とか色々アドバイスされつつ、楽しかった。
近所付き合いはそんなわけで苦にならなかったんだけど、
一番、大変だったのは、古い家問題として、ネズミ!
こいつに関しては闘いでした。
でも、それでもあの頃の生活を思い出すのはなんでやろう。
肌合いというか、手触り、というか、
たとえば、今日、晩ごはんの後片付けをしながら、その瞬間は訪れた。
あの家の、
土間での台所仕事。
土間は寒く、少し薄暗くて、
けれど、シンクは広くて屋根が高いので、洗い物の水音がよく響く。
そんなことを、ふと思い出す。
寝室が二階で、
トイレは一階のしかも離れ。
めんどくさいし、冬はホント寒かった。
寝ぼけまなこに、離れに行くために一旦土間に降りて、
外に出るのは本当にめんどくさかったんだけど。
それでも思い出す。
寝室にしていた二階の低い天井。
同居人くんの仕事部屋は下の土間がよく見えた。
そして私の仕事部屋は一階で小さな小さな前栽に面していた。
日々の買い物は地元の商店街と小さなスーパーで、
買い物をして帰ってくれば、近所のおばあちゃんに、
「今日は○○まで行ってきたん?」と訊かれたりしながら、
本当につつましく、けれども充実した時間だった。
それまでフラフラと自信のなかった私が初めて認められたような、
西陣のあの町屋での暮らしはそういう経験だった。
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